第一造兵廠の歴史
自衛隊十条駐屯地・中央公園の今昔


旧第一造兵廠本部


●はじめに

今日北区十条台一丁目には、自衛隊十条駐屯地、北区立中央公園、短大、養護学校などの建物・樹木が建ちならんでいる。
しかし、戦前にはこの場所が第一造兵廠として、銃弾・無線機・火具などの兵器を生産していた。
戦後多くの建物は壊され、現在では昔の面影がほとんど残っていません。
わずかに現在中央公園文化センターの建物(第一造兵廠本部)と稲荷公園近くのレンガ倉庫2棟が残っているにすぎません。
レンガ倉庫2棟も保存は決まっていますが、全部か一部になるかは決まっていない。
中央公園が稲荷公園まで拡張され、レンガ倉庫を図書館などに転用され残されるました。
北区立中央図書館
王子本町2-31の都営王子本町アパートの道路際に、陸軍用地と書かれた石碑が建っています。
この石碑は、ここがかって陸軍の第一造兵廠の用地だった記念碑のような気がしてなりません。







左側の十条駐屯地に沿って中央公園が整備された。

●第一造兵廠の歴史

  • 創設
明治37年2月、日露戦争が勃発、戦争が長期化し大量の兵器弾薬が必要になった。
当時陸軍で使用する兵器弾薬は、東京砲兵工廠と大阪砲兵工廠で製造されていた。
東京砲兵工廠は、
@現在東京ドーム・後楽園遊園地のある小石川地区に本部・小銃製造所・砲具製造所・銃砲製造所・火具製造所があった。
A現在帝京大学・東京家政大学などがある板橋区加賀の板橋火薬製造所。(他に王子六丁目に明治28年に創設された王子工場・板橋にあった火薬研究所なども含まれる。)
B現在日本化薬高崎工場、群馬の森公園などがある群馬県高崎市岩鼻町の岩鼻化薬製造所。
C現在防衛庁技術研究所などがある目黒区中目黒の目黒火薬製造所。
などが主な施設であった。

兵器弾薬等の増産の為、小石川地区の銃砲製造所の設備移転・拡張の必要性が生じた。
明治38年1月、十条が移転先として選定、4月起工、11月に落成した、12月に移転開設した。
今も十条駐屯地の本館前に、明治39年3月に建立された、東京砲兵工廠銃砲製造所開設記念碑が残っている。
移転した十条地区は、板橋火薬製造所に隣接した畑・雑木林10万坪(現在の十条台一丁目・王子本町三丁目)を総額30万円で陸軍省が買収した。
明治39年4月27日、東京砲兵工廠銃砲製造所と板橋火薬製造所との間に製品材料等の運搬の為に専用の電気鉄道設置が決定され、その後各工場を結ぶ鉄道が順次出来上がった。
現在中十条一丁目と王子二丁目を結ぶ南大橋には、戦前上記電気鉄道の鉄道橋がかかっていた。
石神井川に架かる滝野川橋(紅葉小学校側)も戦前は東京砲兵工廠銃砲製造所と雷汞場を結ぶ電気鉄道の鉄道橋であった。ずんぐりした車体で荷物用のトロッコ、人間用の屋根のついたトロッコを牽引していたため「だるま」のイメージがぴったりだった。工員たちは「だるま電車」と呼んでいた。但し昭和20年の地図では滝野川橋は既に道路になっている。

銃砲製造所建設の記念碑
(元明天皇御陵の石片材を材料として明治39年3月に建立)


王子本町2-31にある陸軍用地と書かれた石碑


上記石碑は、自転車のタイヤの右下にある


  • 組織の変遷
時 期 組織名 備 考
明治38年12月〜 東京砲兵工廠
銃砲製造所
明治41年火具製造所が小石川から移転。
大正12年4月〜 陸軍造兵廠火工廠
十条兵器製造所
銃砲製造所と火具製造所が合併し、十条兵器製造所となった。
昭和11年8月〜 陸軍造兵廠東京工廠
銃砲製造所
精器製造所
火具製造所
小石川から東京工廠本部が移転。
「東京工廠本部」「銃砲製造所」「精器製造所」
※火具製造所は精器製作所に含まれた。その後精器製作所から独立。
昭和15年 陸軍造兵廠
東京第一陸軍造兵廠
第一製造所(銃砲)銃弾など
第二製造所(精器)無線機・電話機など
第三製造所(火具)信管・火具など
第一製造所→十条駐屯地・中央公園の東半分・東京成徳短大・都営王子本町アパート
第二製造所→中央公園の西半分・障害者総合スポーツセンター
第三製造所→十条中学校・王子養護学校・北療育医療センター・北養護学校

4万人が働いていた。
昭和20年 終戦により廃止 11月に陸軍省とともに廃止
昭和22年〜 米国陸軍に接収。 東京兵器補給廠
情報局
工兵大隊(測量部隊)
昭和34年3月〜 陸上自衛隊(現在の十条駐屯地) 武器補給処
十条支処他   ※移転当時の呼称

◎東京第一陸軍造兵廠は、本土爆撃では大きな戦災は受けずに済んだ。
唯一の被害はは、現在の王子本町三丁目にあった工場12棟と機器928台が被災したこと。
多くの建物は戦後米軍に接収され、自衛隊の十条駐屯地になるまで残った。
今の十条駐屯地は近代的な建物が整備されている。

現在の中央公園などの敷地に、昭和43年3月米軍王子野戦病院が開設された。
当時の区民の反対運動により、昭和44年12月に病院は閉鎖された。
昭和46年に敷地は返還され、昭和51年中央公園が完成した。

自衛隊十条駐屯地の変遷


時 期 事  項
昭和34年3月 陸上自衛隊武器補給処霞ヶ浦駐屯地十条分屯地として創立。
昭和35年1月 十条駐屯地に昇格。
昭和39年8月 第102高射全般支援隊新設。
昭和42年3月 第103高射直接支援隊朝霞駐屯地から移駐。
昭和55年3月 陸上自衛隊武器補給処十条駐屯地改編。
平成6年9月 第103高射直接支援隊朝霞駐屯地へ移駐。
平成7年10月 陸上自衛隊武器補給処十条駐屯地改編。
平成9年10月 海上自衛隊需給統制隊転入。
平成9年10月 調達実施本部東京支部転入。
平成9年11月 資材統制隊転入。
平成9年12月 通信補給処の一部転入。
平成9年12月 航空自衛隊十条基地創立。航空自衛隊補給本部・第一補給処東京支処十条基地へ転入。
平成10年3月 陸上自衛隊補給統制本部新設。
平成10年12月 海上自衛隊補給本部新設。

◎自衛隊十条駐屯地では周辺住民との交流を図っており、とりわけ毎年7月下旬に駐屯地内で開催される盆踊りは大規模なもので、周辺の子供たちが楽しみにしている行事である。